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一般財団法人愛知難病救済基金

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あゆみ

僕が東海ラジオの深夜放送番組「ミッドナイト東海」をやっていたのが昭和43年から47年にかけての足掛け4年間でした。お陰様で、この深夜放送のパーソナリティー「アマチン」「リコタン」「レオ」の3人は、一躍東海地方の若者たちの支持を得ました。

難病連の30年を振り返ってみることにします。

まず「ミッドナイト東海」の4年間の間に、当時膠原病友の会のメンバーだった百田(ももた)道子さんの紹介で、その友の会の強力な後援者だった産婦人科医の新見(しんみ)先生との出会ったこと。そのことが、その後の僕にとっては人生を決めてしまったようなでき事になりました。

新見先生や百田さんの難病に対する思い情熱に圧倒されたのです。

僕も愛知県の膠原病(こうげんびょう)友の会に即入会することにしてしまったのです。

昭和47年7月から、東海ラジオの早朝放送「さん!さん!モーニング」を担当することになりました。

ちょうどその頃でした。北海道難連などの影響もあったと思いますが、まずは新見先生や、名大医療社会事業部の大島元子(おおしま もとこ)先生などの肝入りで、もちろん難病の患者さん達の熱い思いが実って、愛知県難病団体連合会が結成されました。

それぞれ別々の活動をしていても効果は少ない、大同団結して社会に対しても大きな影響力を持とうということで難病連ができたのです。膠原病友の会のメンバーだった僕も自動的に連合会を支援するメンバーに入り、その頃もう「さん!さん!モーニング」を始めていましたので「アマチンさんは広報担当だ」という事になりました。

もちろん番組ではそれだけをやっていたわけではありません。

47年7月に小原村・蒔岡村を襲った47・7豪雨では、当時の木村建設大臣に直訴をして、応急仮設住宅を増やすことができたり、「盲学校にオーケストラを!」というキャンペーンでは、あっという間にブラスバンド2つ分の楽器や募金をいただいたり、在宅の重症心身障害児のための「オルゴール・キャンペーン」をして民間放送連盟から放送活動部門で民間放送連盟費をいただいたりしていました。

そこでひょっとしたら成功するかもしれないという思いで愛知県のお寿司屋さんと一緒になって「愛の一筆運動」というキャンペーンもしました。お寿司屋さんに飲みに来てくれた人達に色紙を買ってもらって、その上色紙に病院で難病と闘っている人達に何かメッセージを書いてもらってそれを病院へ届けようというものでしたが、これはうまく行きませんでした。ちょっと先取りしすぎたと思っています。この頃からやっと厚生省(当時)も難病のことをボツボツ言い始めるのでしたから。

この後昭和49年の初夏、小牧の板津さんという方が、「家に出て来た筍を聴取者の皆さんに買ってもらって寄付します」と申し出られたり、その竹藪がヒントになって、難病救済キャンペーン「愛の竹筒運動」が始まることになっりました

その板津さんの裏山の竹藪から孟宗竹のよいところを切ってもらって、それに僕が表に「愛の竹筒」、裏に「さん!さん!モーニング・天野鎮雄」と書いて、あちこちお店といわず、家といわず会社といわず置いてもらって、一杯になったら持って来てもらうという恐ろしいようなキャンペーンでした。

昭和50年12月、第1回目の解筒式をしました。本当にびっくりしました。193本の解筒をして、282万6633円集まったんです。凄いですね。

お申し出をいただく所なら、デパートかスーパーだろうが、個人のお宅だろうが、会社だろうが僕が出かけていってオークションでも何でもして募金してもらって来るという事を続けて昭和52年には2050万円になって、昭和53年には4000万を突破したんです。

勢いですかねえ。途中、当時の仲谷義明(なかや よしあき)知事さん竹下景子(たけした けいこ)さん、太田裕美(おおた ひろみ)さんなどに協力していただきながら厚生省の難病対策のことを言ってくれました。一方市民の方々も福祉の方へ目を向け出すという風で社会の追い風をいただいたんでしょうね。おまけに「さん!さん!モーニング」の聴取率も上がって、キャンペーンは大成功でした。

このキャンペーンは、「アマチン計画・1億円キャンペーン」ともいいました。 もとはこんな考えから始まったんです。1億円を分解すると、1000万円×10人と考えてもいいし、100万円×100人、10万円×100人、1万円×1万人か5000×2万人でもいい。

当時は、愛難連の会員が3000人でした。この3000人が7人の参同者を集めると2万1000人になる。この2万1000人に毎年1000円ずつ5年間募金してもらえれば1億円になる。

「年1000円で5年間なら誰だって協力してくれるはずだ」という考えでした。でも、これも上手くいかなかったのです。

そこで、やっぱりラジオに協力してもらって広くキャンペーンを展開して一般市民の協力もいただこうということで竹筒運動が始まったのです。新見先生は運動半ばで故人となられましたが、53年までの4000万円を基本金にして「一般財団法人愛知難病基金」ができあがりました。

天野鎮雄

※ 愛知難病救済基金設立30周年記念講演「愛知難病連との関わりと私の思い」(平成14年11月24日)に加筆訂正しました。